2003年03月10日

「ガイアの夜明け」の秋葉原特集

「ガイアの夜明け」の秋葉原特集を見ました。近年のアニメやゲームの興隆を「家電の不振の裏返し」という捉え方しかせず、じゃあなぜアニメやゲームなのかという考察がなおざりなのはどうかと思いますが、まあこれは経済番組ですからね。見てて改めて思ったのは、「おたく」というのは、経済の側からは際限なく消費してくれる優良なマーケットとして(のみ)考えられているんだなあと。

今のアニメだって、これだけの売り上げが見込めるから制作にこれだけかけられますって、経済の論理で制作費が決まっていく訳で。それはある意味当然のことなんですが、余りにも行き過ぎると、作品が単なる「商品」としてしか扱われなくなってしまう――というかもうなってますが――寂しさがあります。良質な作品が生まれるためには、ジブリのように才能と資本が幸福な結婚をするか、傑出した才能が限られた条件の中でゲリラ的にやるしかないような状況は、何とかならないものでしょうか。

我々(と敢えて言いますが)の自衛策としては、消費すべき対象を厳しく選別し、絞っていくことなのでしょう。経済の論理の中でも、「商品」ではなく「作品」を生み出そうと頑張っている人はたくさんいる訳で、そういった人たちをこそ応援しなければ。

とか書きながら、やっぱり「萌え」という楽しみ方もまた捨てがたい訳で。難しいところです。

2003年07月06日

おたくの共通言語

2ちゃんねるのスレがSF話で盛り上がってるようですが・・・。
>福たんの見解を聞きたいところだな。
ということなので、いささか思うところを。

よく言われることですが、1960年前後生まれをおたくの第1世代、70年前後生まれを第2世代、80年前後生まれを第3世代とします。それぞれの世代の共通言語、つまりお互いのコミュニケーションの上で最低限踏まえておくべき知識のホームグラウンドとなる分野は、非常に大ざっぱに言うと、第1世代がSF、第2世代がアニメ、第3世代がゲーム(ギャルゲー)だと思うんです。

私は71年生まれなので第2世代ということになりますが、自分の記憶では、中学、高校生のころ、近所の本屋に早川書房の青い背表紙の文庫本は結構並んでいたのですが、有名どころを少し読んだぐらいで・・・。興味はあった(今もある)んですけど、やっぱりアニメや漫画の方が魅力的だったのかなあ。

前に書いたように、私がおたく的世界に足を踏み入れるきっかけになったのは高橋留美子氏の「炎トリッパー」なんですが、あれもタイムパラドックスというSF的要素が使われているわけで。自分の感覚としては、
>SFは拡散浸透した。
>しかし、だからといって過去の名作が色あせるわけではないがね。

という見方に共感を覚えます。ただ、
>もうジャンルとしての使命は終えている。
とは思いませんが。

あと、
>オレだけかもしんないけど、ヲタクって何事にも貪欲な人種だと思っていた
という点については、
>今は情報量が増えてきて、受身でも山ほど知識が入ってくるんじゃないの?
という見方に同意です。さらに付け加えるなら、SFやアニメは、読んだり見たりという受動的なメディアなので、能動的にメディアにかかわっていこうとする欲求が、情報や知識を集めるという行動に結びつくのだと思うのですが、最近のおたくのメインストリームと目されるゲームは、自分がゲームをプレイするという意味で、擬似的にではあるものの能動的に楽しむことができるので、メディアに能動的にかかわりたいという欲求がそれだけである程度満たされるのではないかという気がします。

この辺りのことは、ササキバラ・ゴウ氏が自身のサイトで書いている「おたく元年・1978年論ノート」が非常に参考になります。と書いていたら、すでにスレで引用されていましたね。素早い・・・。

さて、これからゆるゆるとアニメの感想を書いていこうか・・・(あくまで予定)。

2003年07月13日

おたくとは何か~はじめに

先日の「おたくの共通言語」での堺三保さんとのやりとりや、この前書いたある文章などがきっかけとなって、どうも変なスイッチが入ってしまったようで、最近、「おたく」ということについてあれやこれや考えています。ただ一人で考えているだけではあまり生産性がないので、今まで考えたことをここで公開してみて、いろいろな人の意見を聞いてみたいと思うようになりました。

読んで頂くに当たって二つお願いがあります。一つは、私も勉強不足かつ能力不足ですので、既に誰かが言及や指摘していることを、自分の考えとして書いている可能性があります。そういう点が見受けられたら是非指摘して頂きたい、ということ。現に、「おたくの共通言語」で書いた、おたくの世代の立て分けの仕方は、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」(13ページ)で触れられています。私自身としては、この立て分けの仕方にもう少し根拠を持たせることができると思うのですが、それはいずれ。一方で、私は学者ではありませんので、様々な点で非常に大ざっぱに話を進めている部分があると思いますが、その辺はご寛恕下さい。

もう一つ。私は、ここで書いていることがすべて正しいと考えている訳ではないし、そうは受け止めて欲しくはないということ。自分でも暴論やこじつけとしか思えないことをあえて書いている可能性もありますが、読んだ方が考える何かのきっかけになればと思ってのことですので。ここを訪れる大半の方がおたくであると思われる以上、おたくについて考えることは自分自身について考えることにもなり、それは決して意味のないことではない、と思います。

で、現在の「おたく」という表現が中森明夫氏によって使われ始め(「漫画ブリッコ」資料館所収の『おたく』の研究を参照)、宮崎勤事件によって強烈な負のイメージを負って人口に膾炙し、その裏返しとして岡田斗司夫氏らによって肯定的な「オタク」のあり方が提唱され、といった流れは前掲「動物化するポストモダン」を始め各所で述べられている通りですが、おたくそのものについて考える場合、その正負のイメージとは無関係に、純粋におたくという存在について扱うべきだと思っています。私自身は、「おたく」という言葉を価値観の軸ではニュートラルに使っていますので、そのように理解して頂ければと思います。

その上で、私が考えるおたくとは何か、についてですが、斎藤環氏が「戦闘美少女の精神分析」(53ページ)で書かれている「端的で下世話な表現をするなら、アニメキャラで『抜く』ことが出来るか否か、それがおたく―非おたくの一つの分岐点ではないだろうか」という見方に非常に共感を覚えます――もちろん、この本ではこんな下世話な話だけではなく、精神科医の立場から見たおたくの鋭い分析が種々述べられています――。

この見方にも近いとは思うのですが、私自身は、「萌え」という感情が理解できるかどうか、それがおたくかどうかの一つの分かれ目ではないか、と考えています。すなわち、おたくとは「萌え」を理解する存在である、と。もちろん、異論はあるでしょうし、おたくという幅広い存在をそこまで言い切ってしまえるとは思っていませんが、とりあえず、ここではこのように位置づけて話を進めたいと思います。

そうすると、次は「萌え」の意味について考えなければなりませんが、長くなりましたのでそれは次回に書きます。

おたくとは何か~「萌え」の意味

前回を書いてからふと思ったのですが、「萌え」という言葉が広まる前からおたくは存在したじゃないか、という反論があるかと思います。当然、おたくというあり方にしろ「萌え」という感情にしろ、その言葉が“発見”される以前から存在したもので、しっくりくる言葉の出現によってそれが急速に定着したのだろうと思います。ですので、「萌え」以前のおたくは、そういう言葉は存在しなかったけれど「萌え」ということを理解していた、そう捉えて頂ければと思います。

同様の理由で、「萌え」の語源について探ることはあまり意味がないような気がしますので、ここでは触れず、その意味についてのみ考えたいと思います。

「萌え 意味」や「萌え 定義」でグーグル検索してみると、「萌え」について様々な説明が試みられていて参考になります。例えば、以下のようなものです。

「ある人物やものに対して,深い思い込みを抱くようす。その対象は実在するものだけでなく,アニメーションのキャラクターなど空想上のものにもおよぶ。」(三省堂「デイリー新語辞典」)
結局我々の求める最高の理想であり、たとえそれがリアルな現実ではなくても、そのキャラクター(人物)に最大の好意を示す時に使用する言葉。
架空のキャラクターや特定の事象、物品を甚く気に入り、心を奪われること。架空のキャラクターや特定の事象、物品に深い思い入れを抱くこと。
「萌え」とは、自分が神性を感じた存在への信仰のことである。

私自身、某文章で「アニメなどの特定のキャラクターや設定に対し、愛情を抱いて心が奪われる状態を指す」「一部分の設定や特定のキャラクターに熱烈に入れ込む」とか書いたことがあるのですが、どうしても表層的な説明のような気がして今ひとつしっくりこないんですよね。そこで、私が自身の内省も含めて、現在のところたどり着いた「萌え」の意味と考える内容を、以下に記述します。

「欲望の対象となる存在に対し、常にともにありたいと希求する心の状態。」

さらに詳しく述べてみます。修飾語が過多で読みにくいのですが。

「意識的にせよ無意識的にせよ、主として性衝動を根源とする欲望の対象となる、高度に記号化・抽象化された存在に対し、それが不可能であると知りながら、むしろ不可能だからこそ、常にともにありたいと希求する心の状態。」

これだけでは分かりにくいので、もう少し説明します。
「(対象と)常にともにありたい」というのが、最も核となる「萌え」の意味のような気がします。これが同一化にまで行き着くと、(男性による)女装コスプレや着ぐるみコスプレになるでしょうし、そこまで行かなくても、いろいろな妄想を繰り広げたり、そういう二次著作物を創作したり、単に「萌え~」という言葉の発露ですら、対象と常にともにありたいという心の表れとして捉えられるのではないかと思います。そして、その対象と実際に結ばれることは絶対にあり得ないというのが、恋愛との決定的な違いではないでしょうか。

それは、対象が「高度に記号化・抽象化された存在」であることに由来します。例えば、アイドルは生身の人間ですが、ひとたび「加護ちゃん萌え~」と言葉を発した時点で、その「萌え」の対象は生身の加護亜依さんではなく、自身の中に虚構された「加護ちゃん」になるのだと思います。これはアニメやゲームの場合も同様で、もともと架空の存在であるキャラクターですら、本来の作品中の文脈から切り離された、自身の中の虚構として再構築されて、「萌え」の対象となる。こう見ていくと、「萌え」とは、実は変質した自己愛なのではないか、という気もしてきます。

「主として性衝動を根源とする欲望」というのには異論もあるでしょうし、うまく言語化できないのですが、第二次性徴前の子供が「萌え~」というのを想像できないことを考えても、やっぱり「萌え」の背景には性欲があると言えるような気がします。この辺は前回にも挙げた斎藤環氏の「戦闘美少女の精神分析」に詳しいのですが、そこで述べられている「虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人」(30ページほか)というおたくの説明にも、上述の「萌え」の意味は合致するのではないかと思います。また、ここで述べたことは、前掲書に触発された部分が大きいことを記しておきます。

何だか思いこみの独りよがりで書いているような気もなきにしもあらずですが、まあ、何かの参考になれば幸いです。あとは、おたくという言葉が喚起するイメージの多様さや、おたくの世代による共通言語の違いについても述べていきたいのですが、次回がいつになるかは未定です・・・。

2003年07月20日

おたくとは何か~「萌え」の意味ふたたび

先日の「おたくとは何か」の「はじめに」と「『萌え』の意味」は、「カトゆー家断絶」さんを始めいくつかのニュースサイトさんでご紹介頂いたこともあって、多くの方に見て頂いたようで、あちこちで反応も頂いたようです。ありがとうございます。

前に書いたように、私自身は専門家でありませんし、大した勉強をしている訳でもありませんので、思いついたことを適当に書いているに過ぎません。読んだ方の何かの参考になればと思うだけで、書いたことがすべて正しいとは全然思っていません。

ただ、こうしたことを書いた動機は、自分自身が「萌え」という感情を抱く時の心の動きを、何とか言語化できないか、という思いからでした。過去にあちこちで説明されている「萌え」の意味では、どうしてもぴんと来なかったんですね。それで、自分が現時点で何となくしっくり思える、しかもできるだけ一般化した意味(定義ではない!)として、「意識的にせよ無意識的にせよ、主として性衝動を根源とする欲望の対象となる、高度に記号化・抽象化された存在に対し、それが不可能であると知りながら、むしろ不可能だからこそ、常にともにありたいと希求する心の状態」と書いたわけです。

これについて、「その通りだと思う」とか、「合ってるような間違ってるような」など、いろいろな感想や意見を各所で見かけましたが、主なものについてレスさせて頂きたいと思います。まずは、直接寄せられたコメントから。

Saitohさん
>おたく、オタク、ヲタク、ヲタといった用語の使い分けにより、
>「どのレベルの話をしているか」が指定されているように思います。
私もそう思いますが、それでも共通する「おたく」の核の意味あいというものがあるように思います。私自身は、それが何であるかをもう少しはっきりさせたいと考えています。

>精神分析において「欲望」を定義することは不可能です。
私はラカンもデリダもかじったとすら言えないほどですので、この辺はよく分からないんです。前述の「萌え」の意味(繰り返しますが定義とは思っていません)も、自分の感じていることをそのまま書いただけで、それぞれの用語について厳密に定義して使っている訳でありませんので。

>萌えるとは、狭義において「そのキャラに対し他のキャラとは異なる際立った
>魅力を感じる」ことである、と思います。
これは、おっしゃるように狭義、というか、一定の局面においてではないかと感じます。ギャルゲーやギャルゲー的アニメでは当てはまりますが、例えば特定の絵師さんの絵に萌えるとか、そういう状況まで広げて考えるとどうなんでしょうか。

海法さん
>今の日本における一般的なオタク層の特殊性、独自性を定義するには、
>それに加えたプラスアルファが必要でしょう。
このことはまさに私も考えているところで、「おたく」や「萌え」といったものは、ずっと前から存在していた「マニア」や「好き」とはどう違うんだという問いへの答えに結びつくのだと思います。おっしゃるように、
>圧倒的な量と、それを前提とした消費の姿勢
辺りがカギじゃないかという気はしますが、もう少し突き詰めてみたいものです。

次に、私が気付いたサイトさんの反応に対して。
・「エロチック街道」さん
>自身の中の虚構が構築されるというのは、別に萌えキャラに限らずあらゆる
>創作物を受容する際に行われる心理的行動である、という立場もあります。
そうなんですよね。私自身、小説を読んだりする時の昔からの楽しみ方とどこが違うんだと、知人に突っ込まれましたし。でも、やっぱりそれと「萌え」の間には何か違いがあるような気がします。その「何か」に少しでも近づきたいと思っています。

>「萌え」はマニアの域の奥底にある秘境ではなく、むしろ入り口で渡される
>入場券に過ぎないのではないだろうか。
>現実と虚構との対立ではなく、虚構と自意識との関係の問題じゃないかな、
>と思います。
いずれも卓見で、なるほどと思いました。確かに、現実との対比はあんまり意味がありませんね。

・「moirunote」さん(7月17、18日)
>「萌え="抜ける"感覚」というわけではないですね。
おっしゃるように、私も直接「萌え」と「抜ける」を結びつけている訳ではありませんし、だからこそ「意識的にせよ無意識的にせよ、主として性衝動を根源とする欲望」と書いてみた訳です。必ずしも「萌え」の背景に性的欲求があるかどうかは分かりませんが、やっぱりそんな感じはするんですよね。

こちら経由で知った「アニメたれ感日記」さんの「心が動いたこと」などの使い方だと、私の考える「萌え」の意味よりは、ずいぶん拡張されているなあ、と感じます。ひょっとしたら、「萌え」の用法にも性差があるのかもしれませんが。

同じくこちら経由で知った「ARTIFACT -人工事実- | 検索エンジンのテキスト広告」も興味深かったです。ただ、
>オタクは「歪んだ価値観が消費行動と結びつく形で確立された人間」
っていうのは――私自身ももちろんそれに当てはまる人間だとは思っていますが――、現在では「おたく」の十分条件ではあっても必要条件ではないのではないか、と個人的には感じています。

あと、2ちゃんねるのスレのレスに対して。
萌えているだけに踏みとどまっていることが、萌えていることなんだよ。
急いで「自己愛」という結論にたどりつくよりも、その前に、そういう距離
>のありさまを、もっとじっくり考察してほしいのだ。
まさにその通りだと思います。いきなり「自己愛」というのは確かに乱暴な話なんですが、ただ「距離」というのも、分かったような分からないような言葉なので、突き詰めたい部分ではあります。

「「萌え」という感情が理解できるかどうか」という「おたく」の定義では
>アイドルヲタやアニヲタや声優ヲタは説明できても、
>鉄ヲタや軍ヲタなんかは説明できないんじゃなかろか。
確かに、この「おたく」の定義は乱暴なのですが、「萌え」という感情の捉え方によっては説明できるんじゃないか、という気もします。私自身が子供のころ、まだ見ぬ土地の列車にあこがれた、あの何とも言えない気持ちをも「萌え」だと言えれば、ですが。でも、そうすると、「萌え」と性欲の結びつきの問題が出てくるなあ・・・。

俺の周りでアニメもゲームもしない非オタクで、抜き目的でエロゲーやってる奴なんて結構いるぜ。
俺の友人にも、抜き目的ではエロ漫画が一番と言ってる非オタクがいる。
これは、恐らくは、エロゲーやエロ漫画を媒介にして、生身の女性を想像しているのではないかと思います。エロゲーやエロ漫画の絵「それ自体」に欲情できるかどうかがポイントな訳で、斎藤環氏の書いていることもそういう意味だろうと思います。

むう、力つきた・・・。ほかにもスレのレスで反応したいのはあるんですが。とりあえず、
福たんはこの人達の中に入って議論しない方がいいと思う。
趣味でやる分にはいいんだけどね・・・
辺りの忠告は、自覚しているというか、肝に銘じたいと思います。自分がその器じゃないという認識は持っているつもりですし。
こういう領域じゃないですけど、大学時代は研究者の道に進もうと思ったこともあるんですよね。でも、自分はどうも締切とか期限がないと何もできない人間のようで、大学の研究室の環境ではいつまでたっても何もできないだろうなあ、と気付きまして。一留したうえで、こんな(?)道に入ってしまったという。

2003年08月19日

「コミックマーケット64」2日目

今回のコミケは、2日目の16日、3日目の17日に出掛けました。2日間にわたって行ったのは久しぶりでした。16日は午後からのこのこ出ていって、ちょっと回ったらもう撤収し始めるところばかりで、あまり同人誌は買わなかったのですが、惹かれた本をいくつか紹介。

・「細田守の基礎知識?(第三版)」(どうかんやまきかく
細田氏とその周辺の紹介本としてはかなり有名(ご本人も読んでるぐらいですから)で、前から読みたいと思ってました。今回、2日目に出掛けた最大の動機がこれです。氏の演出作品を網羅した詳細な解説を始め、関連資料紹介など充実した内容。特に、「細田守と交通標識」「細田守と飛行機雲」の考察にはうなりました。あと、同時購入の「詳説?劇場版デジモンアドベンチャー(第3版)」も、映画と同じ構図の逆ロケハンの写真や微細にわたる分析がすごい。
制作者の方々ともごあいさつでき、思わぬ接点を知って世間の狭さを改めて感じたり。既刊も含めタイトルに「?」が入るのが多いのは、独自のスタンスの表明や照れからなのでしょうが、堂々と「基礎知識!」「詳説!」と言い切っていい出来だと思います。

・「細田守研究白書」(グッチーズ)
どうかんやまきかくさんで紹介されて購入。前掲書と重なる部分も多いのですが、氏の生い立ちが詳しく書かれているのが目をひきます。これってどこかのインタビューで既出なんでしょうか? アニメージュ2000年4月号が出典のような気もしますが、実はそれすら未見なので。あるいは、制作者の中に一次情報に接することのできる人がいるとか。
別冊コピー誌の「かわら版」では、「明日のナージャ」第26話まで紹介するフットワークの良さ。拙稿まで取り上げて頂きちょっと赤面。

・「宮脇俊三と歩いた世界」(とれいん工房)
著者は、「鉄道未成線を歩く 私鉄編」「同 国鉄編」(JTB)の著書もある森口誠之氏。今年2月に亡くなった宮脇氏を追悼する意味も込めた本です。宮脇氏の著書を紹介しながら、あの独特の柔らかい、人を引き込む力のある文章の魅力に迫ります。氏の晩年の衰えも冷静に指摘しながら、いや、指摘しているからこそ、氏への限りない愛情を感じさせる一冊です。

とりあえずこの辺で。コミケ話から逃げようとしているわけではありませんし、そりゃナージャの(略)だって買いはしますが、やっぱりそういうことはここじゃ詳しく書けないよなあ。でも、この辺のことも含めたコミケを巡る問題についてはちょっと書きたいことがあるので、3日目のことも書くつもりです。とはいえ、19日に休みを取ったからって調子に乗って起きてますが、さすがにそろそろ寝ます。何か文章も変になってきてるし。

2003年08月20日

「コミックマーケット64」3日目(その1)

というわけで3日目の17日。一応白状すれば朝6時台から並んでました。あくまで個人の一般参加者として行ってるので、こんなふうには言わないで頂ければ。で、可能な範囲(謎)で購入した同人誌をピックアップ。まだ精読してない本もありますので、誤解等ありましたらご指摘を。

・「Pin・head vol.2」「別冊Pin・head ぷりんすメロン」(よしかわーるど)
「あの」よしかわ進氏の同人誌。1980年代初めにコロコロコミックで「おじゃまユーレイくん」、てれびくんで「ヒロインくん」を描かれていた方です。小学生のころ、本当に愛読していました。特に「ヒロインくん」の印象は強烈で、前にも書いた志村貴子氏の「放浪息子」のような、男女入れ替わりものや性転換ものの話が好きになったのは、間違いなく「ヒロインくん」の影響でしょう。笠倉出版社から出た復刻本は当然のように買いましたが、ご本人が活動を再開されていたとは知りませんでした。お姿も拝見でき、正直言って感激しました。
「vol.2」も、同時購入した昨冬のコミケ発行の「vol.1」も、内容は新作と思われる「ぱにっくヒーロー」と、「ヒロインくん」の新作など。驚嘆すべきは、20年以上も経っているのに、作品のタッチ、テイスト、面白さが「全く」変わっていないこと。当時の作品と言われても信じてしまいそうです。これはうれしい。
「ぷりんすメロン」は、第1、2話がコロコロコミック掲載時のもの、3話が描き下ろしなんですが、これも続けて描かれたのかと見紛うほど違和感がありません。1、2話は、メロン王子の呪文とか、読んでいて随所で既視感を覚えたのですが、どうやら当時リアルタイムで読んでいたようです。だんだん記憶がよみがえってきました。
氏には、ぜひ今後ともご活躍して頂きたいものです。そして商業誌での復活も期待。

・「まいっちんぐマチコ先生・復刻できなかったシリーズ!!1『ポコチン大冒険の巻』」(えびはら作画スタジオ
こちらはアニメ化もされたので、より有名でしょう。えびはら武司氏の漫画で復刻本も出ていますが、「諸事情」で復刻できない話を収録した本の第1弾との由。表紙を見ただけで、なぜ復刻できないのか分かるような気がします。ご本人にサインまでして頂き、うれしかったです。個人的には「マチコ先生」より、コミックボンボンに載っていた、氏による同じような漫画の方をよく覚えているのですが、作品名が出てこない・・・。
あと、同じスペースで売っていたオールカラーの「エコ夏」(Kaoriの日曜日)も購入。作者のまるやま香里氏はえびはら氏のお弟子さんということですが、スク水えここが異常にかわいい。実はえここにはかなり萌えまして、「とらのあな」のフィギュアがまだ部屋に飾ってあったりとか、エコケットに行ったりとか。今でも好きですが、今回はあんまり本を見かけなかったなあ。絵本仕立てで手作り感覚の装丁も良いです。ご本人の好感度も高く、思わずバッグやポストカードやバッジなどのグッズも買ってしまいました。

・「YUGMIX2003」(YUGMIX)
YUG氏のオールカラーイラスト本。氏の絵は、今まで見てきた中でも一番と言ってぐらい好みなんですよ。つぼにはまりすぎ。今回も良い出来で、もうとりあえず眺めているだけで幸せです。快楽天の連載も、毎月買っているわけではないので、早く単行本にならないかなあ。もちろんオールカラーで。

・「よつばが大王」など(夢屋花乃屋)
天真楼亮一氏によるあずまんが大王本第8弾。一時期はあずまんが本が山のように出ていましたが、このシリーズのパロディーセンスの良さやしっかりした作りは抜きんでていて、DUCKY・DUCK(&FakeGym)さんの所のシリーズとともに、読んで楽しめる数少ない存在でしょう。何より、漫画やコラムの端々から、アニメや漫画に対する真摯な姿勢がにじみ出ているのが心地よいです。
春レヴォ新刊だったおジャ魔女どれみ(&ナージャ)本「月が笑っテル8」も秀逸。辛辣なパロディーに苦笑しつつ、「どれみ」への愛、「ナージャ」への観察眼の鋭さに感じ入りました。「あずマリア様がみてる Vol.1」は、元ネタを全然知らないので・・・。かなりブレイクしているようですが、今から読むのも何だか気が引けて。
氏のことをふゅーじょんぷろだくとの本の漫画でしか知らなかったころは、全然違うイメージを持っていたのですが。ぜひオリジナルの漫画を読んでみたいので、別名義で描かれるらしい新作が楽しみです。

漫画系はこれぐらいでしょうかね。もっと紹介したいのもあるような気もしますが。そろそろ力尽きたので、文章系は稿を改めます。さらに別稿も書くつもり。

あと、そういうところに着目してリンクを張るのはどうかと。おかpさん。いや、自分で書いてるんだから別に構わないんですけど。何度かリンクを張って頂いているようでどうもです。なにげにプロフィールを拝見していたら、何と誕生日が一緒らしいことに気付いてびっくり。これからもよろしくです。

さらに
自分の好きなキャラを汚されたくないという理由で
>エロ同人に手が出ないという人もいるのだが。
私も基本的にはそうです。特にもっと純粋(笑)だった若いころは、本当に好きだった作品の18禁パロディーは存在すら許せなかったものですが。以前ほど抵抗がなくなったのは、年を経て薄汚れていい加減になったのと、最近のアニメや漫画はそれが作られることを前提にしているような部分もあるように感じられるから、かもしれません。

2003年08月24日

「コミックマーケット64」3日目(その2)

その1から間が空いてしまいましたが、続いて文章・評論系の本を紹介。

・「犬からの手紙 総集編 第一紀」(野良犬の塒/押井守メーリングリスト)
「犬からの手紙」第1~3号の総集編。同時に既刊の第4号、第5号も購入。押井氏を始め、沖浦啓之、西尾鉄也、伊藤和典、川井憲次、千葉繁の各氏らへのインタビューなど、非常に資料的価値の高そうなコンテンツが満載。分量も膨大なのでまだあまり読んでませんが、いずれ役に立ちそうなので。
押井氏の作品は、「御先祖様万々歳!」までは熱心にフォローしてたんですけどね・・・。最近、「KILLERS .50 Woman」を見る機会がありまして、「やっぱりすごい」「相変わらずすごい」(前者と後者の「すごい」の意味は異なる)との思いを再認識。

・「山本正之研究会会報第二号」(山本正之研究会)
知る人ぞ知る(と言うほどでもないか)ミュージシャン、山本正之氏のファン本。昨冬発行の第一号も同時購入。自分の音楽趣味の中で、山本氏は柱の一本と言える存在で、最初のオリジナルアルバム二枚は高校生のころ、「究極超人あ~る」のイメージアルバムと併せて死ぬほど聞いたものです。大学生のころにはライブも頻繁に通いました。最近ちょっと離れ気味なのは、昔からのファンの方には何となく分かってもらえるのではと思うのですが・・・。
この本の、2003年スタンダードショーライブレポートや、「才能の本能」非公式ライナーノートを読んで、また聴きたくなってきました。「才能の本能」、今度買おう・・・。

・「ミニフィギュアの魂 ロトさんの本Vol.11」(IRD工房)
最近何かとお世話になりっぱなしの氷川竜介氏の新刊。「アニメージュ」連載の再録と書き下ろしで構成。実は、こういう世界にそれほど大きな興味はないのですが、斯界の奥深さを感じさせてくれる思い入れたっぷりの文章が楽しいです。
とはいえ、各所で話題になっているリカヴィネは、やっぱり買ってしまいました。お店で集めている時間が取れないので、手っ取り早くネット通販でコンプリートセットを注文しちゃったのですが。

このスペースの近辺には評論関係が集まっていて、「と学会誌11」(と学会)や「トンデモ創世記2000・補遺」((株)東京文化研究所)なども購入。後者は、唐沢俊一氏と志水一夫氏による同名の単行本が文庫化された時、カットされた部分を収録した本ということですが、確かその元の単行本は所持していたような気が。でも、唐沢氏から直接売ってもらったのでまあいいや。以前のコミケでは、サインまでして頂きましたし。

で、ここからかなり離れたスペースに委託されていたのが、
・「hirokiazuma.com dvd-rom series no.1 『動物化するポストモダン』とその後」(hirokiazuma.com
東浩紀氏による自主制作講演集第3弾。内容は氏のサイトの紹介ページに詳しいので省略。実はまだ見ていないので。
それより、先着100人分に付く初回販売特典本の書き下ろし評論コピー誌の、それも本編ではなく「ごあいさつ」に非常にインパクトを受けました。
というか、限定コピー本とか、こういうところでまでおたくっぽさ、コミケっぽさを演出しなくてもいいような気もするんですが、それも氏の持ち味だと思われるので好感が持てます。「郵便的不安たち#」がさらに改訂される時は、「も~っと!郵便的不安たち」になるんでしょうし。違うか。
話を元に戻すと、「ごあいさつ」での、コミケやギャルゲーを巡る性表現の問題についての指摘は、非常に的確かつ深刻なものです。これについては自分の問題と絡めてぜひ別稿で書きたいと思っています。前からしつこく言ってるのはこのことです。やっとここまでたどり着けた。でも、それがいつになるかは分かりませんが。

あと、「ごあいさつ」の中で、「ここ数年の激しいバッシングで僕のアニメへの気持ちは思い切り萎えていて、最近は新作もチェックしていないし、もはや心配するまでもなく東浩紀はアニメ論など書きそうもありません」とあるのですが、そんなこと言わず、ぜひアニメについても今後ともいろいろ書いてほしいものです。
私にとって、東氏は同い年であることやその他の共通点もあって肩入れしたいという気持ちがあることは否定しませんが、それを差し引いても氏のことをたたく人の心情というのは理解の埒外なんですよね。

2003年09月08日

東浩紀氏のはてなダイアリー

このサイトでも何度か言及している東浩紀氏が最近、はてなダイアリーを始められたのですが、これが何だかすごいことになってます。はてなダイアリーでは見たこともないようなコメントの多さに加え、こちらの方で開かれるオフ会に、東氏自身が乗り込むことを宣言したのをはじめ、そうそうたる面々が参加の意志を表明されている様子・・・。ちょっとのぞいてみたいような気もしますが、あまりにも濃い集まりになりそうなので、どうしたものか・・・。

2003年11月03日

メイドさんが家に来てくれるんだって

先日、某特殊翻訳家の方から共通の知人を介して、
http://www.maidear.com/
という存在を教えて頂き、これについてどう思うか意見を聞いてみたい、という連絡がありまして。氏は大変驚かれたそうで・・・。

メイドさん人気は、すでにゲームやアニメの世界にとどまらず、メイドさんカフェが全国各地に広がるなど、一部の世界ではリアルでも当たり前になっているのは
http://maidcafe.chu.jp/
あたりを見ても分かるように重々承知していたつもりだったんですが、こういうものまで登場するご時世になったんですね。私にとってもむろん驚きではあったのですが、存在を知ってみると、何で今までなかったのか?と思えるほど、あってもおかしくないサービスであるような気がしてきました。

どういうことかというと、メイドさんをお店だけでなく、自宅でも楽しみたいという需要は当然出てくるでしょうし、それとホームヘルパー的サービスが結びつくのは、むしろ必然の帰結であるようにさえ思えるんですよ。

氏は、当該のお店が「当店は性風俗店ではございません」と強調しているところに、逆に怖さを感じられたそうなのですが、私としては、それを強調する店側や利用者の心情にシンパシーを抱けたので、そのように指摘されて初めて「ああ、普通の人はそういう感想を抱くんだなあ」と思ったわけで。

常識的に考えれば、こういうお店は、コスプレデリヘルみたいな性的サービスとして存在する方が、万人向け、一般向けでしょうし、高い料金を払って女の子に何も手を出せないんじゃ意味がない、ということになるんでしょう。しかし、現実にはこういうサービスが存在し、メイドさんの格好をした女の子と一緒に過ごすためだけに料金を払う利用者がいるわけです。

利用者の心情としては、「自分は性風俗に手を出してるんじゃないんだ。メイドさんと一緒にいたいだけなんだ」ということなんでしょうし、それは私にも非常によく分かります。もし東京にこういうサービスがあったら、一度は利用してみたいとは思いますし(笑)。

氏は、「これを『性的サービスではない』と言い張るところにオタクのセクシャリティの秘密があるような気がして興味深い」と指摘されてるんですが、確かに鋭い見方です。端的には、現実の女性と直接性交渉を持つことへの恐怖心とか言えるんでしょうけど、もっと言えば、利用者にとってメイドさんの格好をした女の子は、直接の性的対象ではなく、「萌え」の対象だから、ということなんでしょうね。この辺のことは、以前に「おたくとは何か~『萌え』の意味」「『萌え』の意味ふたたび」でも書いたんですが、もっと優れた考察があるような気がするのでご教示求む。

気になるのは、ちゃんとしたホームヘルパーのサービス、あるいはデリヘルなどの性風俗と比べて、料金的なレベルはどうなってるのか、ということ。ちょっと調べてみれば分かるんでしょうけど。

あと、やっぱり性的サービスと誤解されたり、利用客からそういうサービスを強要されたりすることが、経営者にとってはリスクになるんでしょうが、大半の利用者はそんな度胸はない――「純粋にメイドさんを愛している」と言い換えてもいいです――と思われるので、意外とおいしいビジネスなのかもしれません。しかし、それはネットや口コミを通じて特定の層にのみ店の存在が知られている限りは、という留保をつけるべきで、何かの拍子で広く知られるようになってしまったりすると、不心得者が出てくる危惧はありますよね。

ついでにメイドさん話を二つ。

一つ目。以前、藍青か何かについて書いた時、「メード服」という表記に「分かってないなあ」みたいな突っ込みをどこかでもらったのですが、新聞的には外来語表記のスタイルが決まってしまってるので仕方がないんですよね。でも、固有名詞の場合は元の表記が尊重されるので、某人魚が歌うアニメの時は「マーメイドメロディー~」と書けましたが。これも一般名詞としては「マーメード」になってしまうんです。

二つ目。個人的なことを言えば、もともと自分にはメイドさん萌え属性はないつもりで、メイドさんカフェとかにも興味がなかったのですが、最近ある漫画に出合ってその気持ちが揺らぎました。その漫画とは、「これが私の御主人様」第1巻(スクウェア・エニックス)。発売直後に立ち読みして、あまりにも都合の良い設定と展開にスルーしてしまっていたのですが、先日じっくり読む機会がありまして。

要するに、これって直接の性的描写がないだけで、内容、構造的にはエロ漫画ですよね。と言い切れてしまうぐらい、エロエロな妄想を刺激されまくってしまったんですが。そのように割り切ってしまえば、ご都合主義の設定も展開も何も問題ないですし。これが少年漫画誌で連載されていることが信じられないぐらいですよ。それで、メイドさんも悪くないなあ、とか思い始めているという。しかし、ここまで寸止めだらけだと欲求不満が・・・。妄想SSのプロットとか思いついちゃったんで、どこかに書こうかなあ。って、真っ昼間から何を書いてるんだか。

2003年11月18日

旧交を温める

ああ、油断するとすぐに間が空いてしまう・・・。

先日、大学時代の同級生で、今は京都で某大学の講師をしている友人から、携帯のアドレスがJフォンからボーダフォンへの衣替えに伴って変わるということで、メールが久しぶりに届きまして。こちらの近況など書いて返信したところ、非常に興味を示してくれまして(笑)、偶然にも16、17日と京都出張の仕事があったので、16日夜、実に数年ぶりに会いました。

もともと彼と仲良くなるきっかけは、入学したてのころ、クラスの各人の自己紹介を書いて冊子を作るという企画があって、自分の似顔絵の欄に何を血迷ったのか、当時心酔していた――今でもですが――かのファンロード誌のカリスマ(笑)投稿者・嵐馬破天荒氏の「モグタン」――詳しくは後述――を書いたところ、「貴様、ローディストだな!(以下略)」とはさすがに言われませんでしたが、唯一反応を示してくれたのが彼だったという。お互い、趣味の方向性が近いのと、韓国への関心を持っていたということもあり、意気投合したのでありました。

しかし、きちんと研究にいそしみ、今や学生さんを教える立場になった彼と、趣味に走った(と見られがちな)仕事ばかりしてのんべんだらりと生きている自分とを比べると、いろいろ思うところしきり。当時から老けた外見で、今ではさらにそれに磨きがかかった自分にとって、いまだ学生時代そのままの若々しさを保つ彼がうらやましくもありました。たまたま二人の邂逅に居合わせた某氏から、「まさか同級生とは思わなかった」と言われてしまったぐらいですから。

それはそうと、その晩はホテルのおしゃれなバーの一角で、場違いなおたく話で盛り上がってしまいました。体調が万全だったら夜を徹してでも語り合いたかったのですが、それはまたの機会ということで、残念かつ申し訳ないながらも、終電前には別れました。学生当時、クラスメイトとあまり積極的に交流を持たなかった自分としては、仕事でフランスに滞在していたり、ウラジオストクに留学していたり、彼のように大学で教えていたりと、各方面で活躍している同級生の消息を聞き、面白くもありました。

ちなみに、彼のサイトはこちら。アカデミックさとおたくっぽさが絶妙にブレンドされた、非常にバランスの取れたサイトで読みごたえがあります。須藤真澄氏の項には私もちらっと登場していたりして。日記帳には当日の模様も書かれていますが、一番印象に残ったのが飯島直子さんの話だというのはどうかと(笑)。

あと、嵐馬破天荒氏についてはこちらを参照。ここも彼に教えてもらったのですが。ちなみに、トップページの背景になっているのが「モグタン」だったりします。

それにしても、泊まったホテルは京都の北郊にあるすばらしい環境の立地でした。パンフレットに、オフシーズンには格安でスイートルームに泊まれるプランが載っていて、「また来てみたい」とか思ったのですが、一緒に行ってくれる人のいない寂しさよ・・・。なので、
彼女いるの?
居ないなら、漏れが嫁にいきたい…。
とか書かれると、思わず「来て来て~」とか思ってしまったり。いや、強がりと思われてしまうでしょうけど、知り合う機会はそれなりにあるのですが、関係をちゃんと育てていこうとする方向に時間がなかなか割けないというか。まあ、そういう方面のお誘いなら大歓迎ですのでメール下さい(笑)。

2003年12月18日

「萌え」に関するメモ

ちゃんと更新している暇がないのですが、ちょっとだけ。

以前、「おたくとは何か~『萌え』の意味」「おたくとは何か~『萌え』の意味ふたたび」とかで「萌え」について言及して以来、自分の手に余ることもあって放置状態でしたが、何とはなしに検索していて、心に響く記述を見つけました。

たそがれSpringPointさんより、「"萌え"の概念(The Concept of "MOE")」。

「"萌え"とは対象への到達不可能性による絶望が予め自らの内に含まれた渇望である。」

簡潔にして当を得ているように思います。私がかつて「萌え」の意味として書いた「意識的にせよ無意識的にせよ、主として性衝動を根源とする欲望の対象となる、高度に記号化・抽象化された存在に対し、それが不可能であると知りながら、むしろ不可能だからこそ、常にともにありたいと希求する心の状態。」よりは数段分かりやすいでしょう。

「萌え」と性的なものを分けて考えている辺りは、私とはちょっと見解を異にしますが(「性的関係」ではなく「性的欲求」は対象が存在しなくても成立すると思いますので)、この説明自体は非常に見事だと感じました。

2003年12月20日

「おたく」という言葉が喚起するイメージについて

「おたく」ほど、送り手、受け手によってその想起するイメージが千差万別な言葉も珍しいのではないかと思います。

もちろん、「おたく」とは何か、というテーマにも関心はあって、前に「おたくとは何か~はじめに」で、「おたくとは『萌え』を理解する存在である」と書いたりした――「萌え」の持つ意味合いの探求いかんによっては、それなりに当を得ているようには思うのですけど――のですが、それ以前に、「おたく」という言葉が用いられた時点で、既にある種の色がついてしまって、「おたく」そのものについて考えたり論じたりするのを妨げているような気がするので、それについてちょっと考察してみようかと。

例によって思いつきを書いてるだけですし、根拠も何もあったもんじゃありませんので、適当に読み飛ばして頂ければ幸いです。

その思いつきというのは、「おたく」という言葉が持つイメージの広がりを、肯定的―否定的、能動的―受動的、の2つの座標軸を持った平面上にマッピングしてみたらどうだろう、ということでした。以下のように。

otakugraph.png

少し説明します。

1.の「エリートおたく」とは、例えば宮崎勤事件以降に、岡田斗司夫氏らによって提唱された、知識エリートとしての前向きなおたくなどがそれに当たると思います。クリエイター等もここに含まれるでしょう。

しかし、同じ能動的でも、TPOもわきまえずにあることないことまくしたてたり、妙にハイだったり、周囲に迷惑をかけるような存在が、2.の「“痛い”おたく」ではないかと。たまに見かけますよね?

そして、3.の「いわゆる『おたく』」とは、最も原初的かつ一般的なおたくのイメージ、すなわち、暗い、不気味、気持ち悪い等々の、今でも多数の人が想起するところのステロタイプなおたくの姿、というわけです。

4.の、受動的で、しかも肯定的にとらえられるおたくというのは、いまいち想定しにくいのですが、強いて言えばシャーロック・ホームズのようなあり方がそれに近いのかな、という気がしています。

うーん、こうやって書いてみると何だかあんまり意味がないなあ。

要するに、私がおたくについて言及するときは、イメージのうえではあくまでもニュートラル、上の平面で言えば0、すなわち原点の位置から論じたいし、自分としてはそのような意図で使っているつもりなのですが、やっぱりほとんどの受け手は「おたく」と聞いた時点で3.を想起するわけで。

例えば何かのコーナーのタイトルに「おたく」という言葉を使おうとすると、相当の抵抗があったり、もしくは最初からかなりバイアスのかかった視点で見られざるを得なかったりするんだなあ、と感じたのでありました。

以下追記。

「何かの作品にはまって関連するものを収集するという行為は、能動的ではないか」という指摘を頂いたのですが、その部分はおたくの行動様式としては自明のことなので、説明を省いてしまいました。上で言う「受動的」とは、単なる作品の受容にとどまっている段階、「能動的」とは、評論でも二次創作でもコスプレでも、受容を踏まえたうえで何らかの発信を自分から行っている状態、というイメージでご理解下さい。

しかしこの文章、カトゆーさんとこで紹介して頂いたおかげで、アクセス数がすごいことになってます。本当にただのたわごとに近いものなので、お恥ずかしい・・・。

さらに追記。

結構誤解、というか、私が考えていたのと違う受け止め方をされている人もいらっしゃるようなので、ちょっと補足を。

ここで言っているのは、ある人が「おたく」と聞いた時に想起するであろうイメージが、大体このような平面上に位置づけられるのでは、ということで、「おたく」自身が自分はこの辺に当たるのでは、と考えるイメージではない、ということです。

もちろん、そういうふうに見て頂いても全然構わないのですが、自分を否定的の方に置く人はそんなにいないと思いますし、自分の考える位置と、他者から見たその人の位置が一致するとは限りませんし(私も含めて)。

しかし、某アダルト系サイトからもリンクがあったようで、恐らくこの文章はこのサイト始まって以来のヒット数を記録してしまいました。やっぱりアダルト系の強さを実感するなあ。110度CSやBSデジタルも、本当に普及させたいのなら、こういうコンテンツをうまく利用するべきなんでしょうね。

2003年12月31日

「コミックマーケット65」に行って来ました

前稿に書いたように、28、29日と寝込んでしまっていたため、予定していた29日の2日目には行くことが出来ませんでした。いくつかのサークルさんにはお取り置きまでお願いしたりしていたので、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。この場を借りて改めてお詫び申し上げます。

ようやく体力もやや回復したので、30日の3日目には、無理のない範囲で会場を徘徊しておりました。とは言っても、相当体には無理を強いてしまいましたが。チェックしたサークルを回り切るだけで、えらい体力を消耗しますから。結局今回は、西館には一歩も足を踏み入れることが出来ませんでした。

今日も福タンを発見できなかった。

いや、狙いはかなりいい所を突いていると思います(笑)。が、いかんせんあの人数ですからねえ。しかも、私はご存じのような容姿なので、あの中では保護色になってしまうでしょうし。とは言え、いくつかのサークルさんでは素性を明かしてごあいさつさせて頂いたりしたのですが。

福タンに似た感じで白衣着てる人は見たな。

コスプレは別にしてませんでしたし。

あと、

http://www.asahi.com/culture/update/1228/001.html
>読売はどうよ?

どなたが書いた記事か分からないので迂闊なことは言えないのですが、個人的な感想を言えば、一般新聞でコミケのこういう告知的な記事を載せる意味があるのかどうか、いまいち分かりません。確かに、

さすがに見て見ぬふりはできない規模になってきたな。

という側面はあるでしょうが、それでは毎回こういう記事を載せるのか。それも何か変ですし。それに、2ちゃんねるのスレでも縷々指摘されている通り、この記事の説明は必ずしもコミケの実態を現していないような気がします。特に、「法人や商業誌の参加を断わり」の下り、企業ブースが幅を利かせるコミケの現状を知って書いているとは、とても思えないんですが。

別にこの記事を批判しようというのではなく、コミケを取り上げるなら、しかも一般紙で取り上げるなら、もっと意味のある取り上げ方をしなければ、ということが言いたいのです。場合によっては地雷を踏んでしまうことになるかもしれませんが、正面からコミケを取り上げることは、それぐらいの危険を顧みなければならない行為であると思うのです。それが、私が今まで敢えてコミケについて仕事としてきちんと書いてこなかったことの、一つの理由でもあります。でも、そろそろ逃げてばかりではいられなくなってきているのかも。

9月の日記ではサヴァイヴ継続視聴するかも・・・とのことだったけど
>忙しくて無理なのかな。

サヴァイヴも含め、この秋以降に始まったアニメは大体録画してあるんですけどね。いずれ見たい、とは常に思ってるんですが。とりあえず最優先はナージャで。

我が家は今まで朝日だったんだが
>来年から読売にもどる。

うちは5年くらい読売のままだな

ご購読ありがとうございます。えー、いつもこんな野暮なことを言うつもりはないんですが、ネットだけではなく、ぜひ紙面で記事を読んで下さい、と。できれば購読して下さい、と。そして、どの記事、だれの記事が決め手で読んでいるか、宣伝して下さい、と。たまにはサラリーマンらしいことを言ってみて、(恐らく)今年最後の更新とさせて頂きたいと思います。それでは皆さま、よいお年を。

あ、コミケで買った本の紹介は、年明けに・・・。

2004年02月14日

萌えろよ萌えろ

「ふたりはプリキュア」感想反応で書いた

>「瓶詰」に感じる気恥ずかしさと、「プリキュア」に感じるそれとは、似て非なるものだと思うんです。

という点についてもう少し詳しく述べますが、両者の違いで自明なのは、子供向けアニメかそうでないか、ということですね。「瓶詰妖精」でなくても、UHF局で放送されているアレやアレでも何でもいいんですが、そういうアニメに感じる気恥ずかしさとは、制作者の「これって萌えるでしょ~、好きでしょ~、存分にハァハァしてね~」という態度が透けて見える部分にあると思っています。

これに対して、「プリキュア」や「ぴちぴちピッチ」、「セーラームーン」(後期は別として)などは、メインターゲットは子供たちなわけで。「子供が見るようなアニメを見て喜んでるなんて・・・。でもイイ!」という気恥ずかしさなわけです。他の例で、「マリア様がみてる」で言えば、「こんな少女向けの小説(アニメ)に萌えるなんて・・・」ということです。

実は、「萌え」と背徳感には大きな相関関係があるのではないかと考えています。その意味でも、後者の作品に「萌える」ことこそ本来あるべき姿であって、前者の「萌えさせる」ことを前提とした作品に萌えるというのは、もちろんそれもありなんですが、個人的には最近、いささか食傷気味に感じています。

この辺の感覚を見事に言い当てているのが、萌え萌えアニメ日記のりなもさんで、2月4日付の萌えアニメとキッズアニメに関する考察にはいちいちうなずけますし、2月12日付の「そもそも(略)制作者の意図しないところに萌えを見いだすのが本道ではないかと。 」という指摘には全面的に同意します。この辺りのことに関する「たまとわ」さんの議論も、大変参考になります。

もちろん、「プリキュア」が本当に「萌え」を狙ってないのかどうかは分かりませんが、少なくとも表面的にはそうではないことは確かなわけで。そういうものに萌えることこそ、私にとっての、あるいは我々の世代にとっての「萌え」ではないかと考えています。ここで世代を持ち出すのもどうかと思うのですが、若い人と話していると、若い世代にはまた別の「萌え」の論理があるような気がするんですよね。

要は、自分が「プリキュア」に狂ってるのを正当化したいだけなんだろ、と言われてしまえばそれまでなんですが。とりあえずこの話はこの辺で。

プリキュアが絶賛されてミュウミュウが貶される理由がよく分からん

「東京ミュウミュウ」を貶した覚えはないんですけど。最終回のことはちょっと書きましたが、これは作品そのものへの評価ではないので。でも、「ミュウミュウ」は、子供向けを偽装した萌えアニメではないかと思ってるので、ここでいう「前者」の部類に入るような気が。

メイド服やネコ耳とか「さあこれが萌えなんだろ?」と
>最初から提示されていたのに馴染めなかった人も多かったんじゃないだろうか。

という指摘の通りだと思います。

オタクというより、オタクをシミュレートしているような気がする。

そうですね。私は、おたくは自らをおたくだと認めた時点で本来の意味でのおたくではなくなると思っているんですが、私の場合、いろいろなものとの対抗上(?)、既にかなり自覚的に振る舞っている部分がありますので、そのように感じられるのかもしれません。

十兵衛への興味が薄れたようだな

全然そんなことはないんですけど。この作品は、最後まで見ないと評価を下すのは難しいとは思っていますが。

こういったお店は守備範囲かな?>福タン
http://www.littlebsd.com/

おおっ、こんな店ができるとは! もちろんですよ。お酒は好きですし、むしろメイドカフェよりこっちの方がいいなあ。神田で日曜日だけそうなる店があると聞いたのですが、行ったことはなくて・・・。この店は是非行こう。誰か一緒に行ってくれないかなあ。

サヴァイブをチェックしてない時点でアニオタとして失格だと思う。

失格とは思いませんが、「無人惑星サヴァイヴ」こそ、ここで言う「後者」の好例だと思いますので、見たいんですよね。一応全話録画はしてますので。

あと、「イノセンス」の試写を見てきました。すさまじいほどの圧倒的な情報量でした。それこそ義体ならぬ我が身には、一回見ただけではすべての情報を処理し切るのは不可能なほどの。これこそ「萌え」とは無縁の世界ですね。いや、だからこそ「ハダリ」辺りに萌えるのが、ここで言う本来的な「萌え」のあり方か(笑)。

2004年02月28日

今月の「あれ」

無事に2回目も終わりました。しかしよりによって、まさかこんな日に当たるとは・・・。まあ、こういう時は即売で買ってくれる人も多いので、露出機会は増えたと思います。それがいいかどうかは別として。

今更『もえたん』特集なんて、ちょっと遅すぎじゃないか?

という指摘はきっとあるだろうと思っていたのですが、理由の一つは、今まで書きたくても書けるコーナーがなかなかなかったこと。もう一つは、これまでのメディアでの「もえたん」の取り上げ方に飽き足らなかったことです。

「もえたん」の肝であり核であるところの「萌え」をおざなりにして、一体「もえたん」の何を紹介したことになるのか、と。ロリコンやパンチラなんてただの飾りです。えら(ry

さすがだなあ、と思ったのは、「週刊朝日」(2004年1月30日号)の高橋源一郎氏による書評。

だが、いったん英語になった、それらの「萌え」的表現は、熱狂からほど遠く見える。そういうものに熱中している自分を冷静に眺めているという感覚がそこにはある。おそらく、それは「萌え」の本質に関係があることなのだろう。

「萌え」の何たるかを、的確に捉えていらっしゃると思います。ここまでには至れなくとも、少しでも真摯に「萌え」について考えたうえで「もえたん」を取り上げたい。「萌え」なるものの理解者を、わずかでもいいから増やしたい。その思いが、やや空回りしてしまった感もありますが、あのような形になったわけです。

あと、私流の解釈では、「もえたん」がこれだけ売れた大きな理由は、「世代を超えたおたくの連帯」だと思っています。馬鹿(褒め言葉)な漢の心意気に、漢がほれた、というか。その辺の気持ちも込めたつもりなのですが、うまく伝わっているかどうか・・・。

末筆ながら、ご協力頂きました方々に、この場を借りて御礼申し上げます。

2004年03月03日

続・今月の「あれ」

なんか一生懸命なんだけど、萌えってそんなに特別なことなのかな・・・
>感情としてはアイドルとか映画スターを追っかけたりすることと
>そんなに違わない気がするんだけど

つか、もえたんって、元ネタに気付いてニヤリとしたり、
>分からなくて悔しい思いをする程度のもんだと思うんだけどね

正直すまんかった。今月の「あれ」を書いた時は、「ふたりはプリキュア」第5話におけるほのかよろしく、ちょっと肩に力入りすぎというか、額に青筋立てすぎという感じでしたね。別にそんなに大上段に構えることもないわけで。

一口に「萌え」と言っても、恐らく百人いれば百通りの「萌え」があるのだろう、と思います。私がこのサイトでくどくど書いているのは、私にとっての「萌え」が中心なのですが、それでも、傾向をいくつかのタイプに分けたり、最大公約数的な「萌え」の意味するところを抽出したりはできるんじゃないかなあと思って、あれこれ論じたりしているわけです。

とか考えていたら、風流[姫]君の夜霧さんの2月20日付の日記「萌えと羞恥心」で、興味深い記述が。

『萌え』とは羞恥心の裏側にある衝動であり、ある意味羞恥プレイと言えるものではないかと思います。

この辺、私が前に「萌えろよ萌えろ」で書いた「『萌え』と背徳感には大きな相関関係があるのではないかと考えています」に通ずるのではないか、と勝手に思っています。

『萌え』とは「可愛いものに対する本能的衝動」で、「恋に似ており、恋と両立しうる別物」だと定義しています。故に、萌えを英訳するなら「pretty」こそが最も近いかと思います。

この定義も、「萌え」の最大公約数的な意味としては共感できるところです。

実は私自身、大学生のころ、世の中の事象はすべて、大きな流れとして「かわいいもの」を指向しつつあるのではないか、と考えまして、大宅壮一氏の名言「一億総白痴化」にならって「一億総かわいい化」という言葉を使ったりしていたのですが、その思いは今も変わらないというか、その傾向は今になって一層強くなっているように感じています。

などと縷々述べてきたわけですが、実は私が「もえたん」について一番感じていることは、「萌え」よりも、今月の「あれ」でも書いた「世代を超えたおたくの連帯」という点です。エロチック街道のヘッドさんが、2月29日付で的確に言葉を補って下さっています。

「萌え」を「わかってる」ひとが、こういうのを出版として出せる位置にいるというのもあるでしょうね。あと、最近、同人等から出た作品やオープンソースなソフト開発にも感じるのですが、ネタをネタと終わらせないでそのまま公に打って出ちゃうぐらいの勢いを得るパターンが結構あるような。つまり大人ビジネスの世界と学生オタクの世界、との境界があいまいになってきているような。反発しているだけじゃだめで、うまく利用していく、というような強さが出てきたように思うのですが、これって成長、ってことになるのだろうか。

そうなんですよね。今や、出版社にも中央官庁にも新聞社(笑)にも、社会のかなり広範囲に、ある程度の立場で「萌え」が分かっている人が存在するわけで。そういう人々の様々な「いい仕事」に対して、次代を担う「萌え」者たちが連帯感を表明してくれている(古くさい言い方だな・・・)。「もえたん」が売れたのは、その一環ではないのかなあ、と感じています。

成松哲さんの三十路でアニメ: 機を逸しすぎた取材後記

「キャラクターがかわいい」「ストーリーが泣ける」からではなく、「送り手との共犯関係を楽しみたい」から萌える。萌えって意外とクールな遊びなんだなぁ。

とあるのですが、むしろこの場合、「萌え」というよりは「送り手との共犯関係」に主眼があるんじゃないかと。現に、

萌えたんの萌えはネタに過ぎないのではないかと思う今日このごろ。

もえたんで萌えた奴っている?

という声もありますし。「萌え」を題材に「いい仕事」をしたからこそ「もえたん」は支持されたのであって、あまりにも受け手をなめたような仕事だったら見向きもされないのは当然なわけで。例えば(ry

でも、私自身はいんくたん萌えですよ。ええ、それはもう。何てったって、私の33歳の誕生日に、こんなイベントが行われるぐらいですから。大阪だって行く・・・かどうかは分かりませんが。

DEPOLOG: blockquoteを簡単にのおかげで、blockquoteが扱いやすくなりました。あと、#BLOG: MTの「最近のTrackback」にエントリーのTitleとPermalinkを!を利用させて頂きつつ、「最近のトラックバック」も追加。先達の英知に感謝。さて、そろそろプリキュアリンクの整備に取りかからねば・・・。