2006年01月30日

「ふたりはプリキュア Max Heart」最終回に寄せて

思うに、「ふたりはプリキュア」というアニメが今あるような形になって、女の子たちの人気を集める作品になるまでには、かなりの偶然の要素の積み重ねがあったような気がしてなりません。マイナス面も含め、そのどれか一つの要素が欠けても、今日あるような状況には至らなかったのではないか、と。そのあり得ない積み重ねを、人は「奇跡」と呼ぶのでしょう。

そしてその「奇跡」は、作品に携わった人々の不断の奮闘と努力があってこそ、初めて起こるのだと思います。まさに「奇跡は起きます!起こしてみせます!!」(from「トップをねらえ!」)ですよ。1月29日、西尾大介SDをはじめとするスタッフ陣は、最後の「奇跡」を我々の前に現出させてくれました。

「明日の像」や「けやきの木」の使い方、子供時代の家族との回想、無印8話や同42話など、なぎさとほのかが築いてきた絆の深さを想起させるシーンの挿入等々、グッと来るレイアウトやシチュエーションてんこもりで、西尾SDがこの一本に込めた魂がビシビシ伝わってきました。以下、愚にもつかない私見を述べてみます。

バルデスに打ちのめされた二人は、過去の記憶とともに「自分たちにはすべての命がつながっている」ということを自覚し、一度は復活します。このレベルでの復活は、過去にも何度か描かれています。しかし今回は、渾身の一撃もバルデスには通じなかった。しかも、バルデス自身がジャアクキングであったのです。

絶望の縁に追い込まれた二人は、ふいにたわいない日常レベルの会話を始め、それをきっかけとして「私たちは自由」であり、「心の中までは誰も手出しできない」ことを悟ります。まさに解脱と言うべきであり、この瞬間にこそ、二人は真の意味での「プリキュア」――メップル、ミップルの力を借りるのではなく、彼らを自分たちの下に従えるほどの力を持った――になったと解釈できましょう。「私たちの中に希望と勇気がある限り」「私たちは誰にも絶対に負けない」。この時、ジャアクキングが宇宙そのものなら、プリキュアは地球上のすべての命そのものになった、と。

一度はプリキュアに倒されたかに見えたジャアクキングは、地球に覆い被さらんばかりの最終形態で登場し、同様の姿のクイーンが対峙します。そこに、「未来を作るのは私たち自身」であることを悟ったシャイニールミナスが現れ、プリキュアとルミナスによって、「全てを生み出す力」が解放されます。

ここまでの構図をまとめると、プリキュアはジャアクキング=闇=陰との対決によって悟りを得、ルミナスはクイーン=光=陽の導きによって悟りを得た形になります。このプリキュアとルミナスとが、ともに放ったエキストリーム・ルミナリオ・マックスこそ、闇の世界そのものと光の世界そのものとの壮大な陰陽合一、世界を新たに作り直すほどの、まさに「全てを生み出す力」となったのです。

締めくくりに、ひかりをはじめみんなが二人の元に戻ってきたのは、この世界を守った二人への、クイーンのささやかなプレゼントであると同時に、2年間応援してくれたテレビの前の女の子たちへの、スタッフのささやかなプレゼントであるとも言えましょう。そして、クライマックスでのクイーンとジャアクキングの姿が光と闇の対立を象徴するならば、ひかりとひかるがともに暮らす姿は光と闇の調和を象徴しているとも考えられます。

もうね、何度か見返してるんですが、どんどん泣けるようになっていくんですよ。最初の1、2回は、あまりのことに放心して見ているような感じだったんですが。見るごとに考え抜かれた深さが分かってくる演出と、その演出意図に応え切った見事というほかない作画。そりゃ、時間や尺が足りなかったからなのか、説明不足な面があるのは否めないかもしれませんが、テレビシリーズの最終回として近年屈指の出来だったと言えるのではないでしょうか。女の子向けアニメとして、本来の視聴者層を満足させながらも、それにとどまらない大きな世界を描き切った名作になったと思います。


「ふたりはプリキュア」という存在にかかわったすべての人に、

この2年間、本当にありがとう、そしてお疲れさま、と。

万感の思いを込めて。

Posted by fuku at 23:57 | precure | トラックバック (0)
コメント

Posted by: gaclim at 2009年03月31日 18:13

No, then down to mount her, kicking off.

Posted by: ocunkiwzy at 2009年04月06日 07:10

Posted by: dhyktak at 2009年04月06日 18:47
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